風景パノラマ
No.155

馬籠  (まごめ) 

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 文豪「島崎藤村」のふるさと。木曽11宿の最南端、山の斜面 全長600m余りの宿場町
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 画像をクリックすると 大サイズで表示します 画像番号 大サイズ容量  撮影年月
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 No.15501 82kB 2006.5
中仙道 馬籠宿
 島崎藤村のふるさと馬籠(まごめ)は、木曽11宿の最南端に位置し 山の斜面に長さ600mの宿場町。 その南端入り口付近。左に生協のお店があるがなぜか風景に溶け込んでいる
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 No.15502 66kB 2006.5
中仙道 馬籠宿
 南端から上り坂すぐに鍵型に曲がった所にある水車小屋、馬籠の特徴ある風景ポイントの1つだ
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 No.15503 164kB 2006.5
中仙道 馬籠宿
 No.2 画像から少し登った所からの風景。水車小屋と常夜灯。坂の街であるのが良くわかる
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 No.15504 119kB 2006.5
中仙道 馬籠宿
 中山道は日本橋・京都間 約530kmに69の宿場が設けられていた。別名「木曽路」「木曽街道」とも呼ばれ、東海道に比べ24km遠回りであったが、大井川増水の足留めや桑名一宮間の船旅で海難の危険を避けるために利用された
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 No.15505 118kB 2006.5
中仙道 馬籠宿 郵便局と水車
 馬籠宿の中央には2つの水車がある。傾斜地と山懐で水が豊かなためだろう
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 No.15506 112kB 2006.5
中仙道 馬籠宿
 宿場の一番北にあたる所に高札がある。手前の手打ちそば屋さんも風情がある

 ぐるり 360° 全周写真 89+90kB 2006.5 中山道 馬籠宿
 島崎藤村記念館前 No.8 2002年版 の再撮影 できるだけ人の少ない瞬間を選んで撮影しています   11枚つなぎ写真です

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[ 付録画像 ]


 馬籠宿 南端              防火用水のミニチュア?  道端にアケビの花が咲いていた
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 水車小屋 北方向に向かって街道が伸びる  水車の水道      斜め上から見た水車小屋
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 お菓子処                 甘味処                    煎餅屋さん
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 藤村記念館 入口  馬籠は島崎藤村の故郷
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 ここにも水車                           木曽檜を使った工芸品


 中山道のいわれ説明                      高札 (こうさつ)

 左の説明には以下のように書かれています

 中山道
 中山道は、はじめ 「中仙道」 と書かれていたが、本州の山岳地帯を貫いている道路ということから
享保元年(1716)以降、「中山道」 と書き改め、やはり 「なかせんどう」 と読まれた。
江戸と京都を結ぶ重要な街道で、その延長は132里(約550km)。
ここには69の宿場が置かれていた。
 この道路は東海道・奥州街道・甲州街道・日光街道とともに 「天下の五街道」 の1つといわれ、
参勤交代の際、ここを通る大名は34家と定められていた。
江戸幕府にとっては西日本にある諸大名の動向対策と、これらの諸国を支配していくうえに
極めて重要な性格を持つ道路であった。

 陣場
 ここらあたり一帯の地名を 「陣場」 という。
天正12年(1584)に徳川家康と豊臣秀吉が戦った小牧山の決戦のとき、木曽路を防衛する豊臣方は、
馬籠城を島崎重通に固めさせていた。
 家康方は兵七千をもって木曽に攻め入り、その1部は馬籠城を攻略すべくこの地に陣を置いた。
故にここを 「陣場」 と呼ぶようになった。

 高札場
江戸時代には、村人たちに法令などを徹底遵守させる目的で、板に墨書したものを掲示する場所を定めたが、
それは村の入口や庄屋宅の近くなど人目につき易い場所が選ばれ、藩の厳重な管理下におかれていた。
村人たちはその場所を 「こうさつば」 とか 「ごはんきょうば」 といった。
 文字が読めない人が多いその当時、正月になると庄屋は村人をこの場所に集めて読んで聞かせ、
これを守るように言い聞かせた。
 現在復元されているものは、正徳元年(1711)に交付された 「御朱印・春薬等の定書き」 や、
明和7年(1770)の 「徒党禁止」 の札などで、復元の際に読みやすい楷書に書き直した。
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