風景パノラマ |
馬籠 (まごめ) |
![]() 馬籠宿 南端 防火用水のミニチュア? 道端にアケビの花が咲いていた . ![]() 水車小屋 北方向に向かって街道が伸びる 水車の水道 斜め上から見た水車小屋 . ![]() お菓子処 甘味処 煎餅屋さん . ![]() 藤村記念館 入口 馬籠は島崎藤村の故郷 . ![]() ここにも水車 木曽檜を使った工芸品 ![]() 中山道のいわれ説明 高札 (こうさつ) 左の説明には以下のように書かれています 中山道 中山道は、はじめ 「中仙道」 と書かれていたが、本州の山岳地帯を貫いている道路ということから 享保元年(1716)以降、「中山道」 と書き改め、やはり 「なかせんどう」 と読まれた。 江戸と京都を結ぶ重要な街道で、その延長は132里(約550km)。 ここには69の宿場が置かれていた。 この道路は東海道・奥州街道・甲州街道・日光街道とともに 「天下の五街道」 の1つといわれ、 参勤交代の際、ここを通る大名は34家と定められていた。 江戸幕府にとっては西日本にある諸大名の動向対策と、これらの諸国を支配していくうえに 極めて重要な性格を持つ道路であった。 陣場 ここらあたり一帯の地名を 「陣場」 という。 天正12年(1584)に徳川家康と豊臣秀吉が戦った小牧山の決戦のとき、木曽路を防衛する豊臣方は、 馬籠城を島崎重通に固めさせていた。 家康方は兵七千をもって木曽に攻め入り、その1部は馬籠城を攻略すべくこの地に陣を置いた。 故にここを 「陣場」 と呼ぶようになった。 高札場 江戸時代には、村人たちに法令などを徹底遵守させる目的で、板に墨書したものを掲示する場所を定めたが、 それは村の入口や庄屋宅の近くなど人目につき易い場所が選ばれ、藩の厳重な管理下におかれていた。 村人たちはその場所を 「こうさつば」 とか 「ごはんきょうば」 といった。 文字が読めない人が多いその当時、正月になると庄屋は村人をこの場所に集めて読んで聞かせ、 これを守るように言い聞かせた。 現在復元されているものは、正徳元年(1711)に交付された 「御朱印・春薬等の定書き」 や、 明和7年(1770)の 「徒党禁止」 の札などで、復元の際に読みやすい楷書に書き直した。 . |
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